『世代』という圧力団体

ワールドカップで日本が早々と負けたせいもあるが、いまだに集団的自衛権の件が話題だ。政府は世間の目がワールドカップにくぎ付けになる今国会が勝負だと踏んで日程を組んだのではと邪推するのは、僕がネットに毒されているからだろうか?でも、そう感じてしまうほど、安部首相の強い意志を感じる。

今回の件で、安部首相は世界からも「日本の右傾化」の象徴とされる人物と評されているが、彼の政権運営を見ていると、決してそうではないような気がする。むしろ55年体制以降、政治がトライし続けてきた新しい形のイデオロギー対決は不可能と結論付けられ、安部政権において終焉したと感じる。なぜなら、彼の言動からはイデオロギーのかけらも感じることができないからだ。では今の政治において何が対決しているか?それはイデオロギーではなくジェネレーションなのではないか。

安部首相の政策における共通点は、投票率の低い若年世代に冷たいということだ。残業代ゼロ法案とも言われるホワイトカラーエグゼンプション、実質15万ほどの増税を女性の社会進出に置き換えた配偶者特別控除の廃止(見送りが決定)を意図する一方で待機児童の問題は遅々として進まず、健康保険料は上がり年金未払い者への差し押さえは可能なる一方で、高齢者の保険料率のアップは行われず年金制度の改革も行われる気配はない。彼は、こうした施策をとっても選挙に影響がないことを見抜いているのではないか。デモを行っても、支持率が下がっても、それは食べに来なくなった客が店に文句を言っているのと同じで、今ある得意客で店が十分切り盛り出来ている以上、彼にとっては痛くもかゆくもないのではないか。

選挙と言うのは今まで「どの党に投票するか」が重要だった。でも、安部政権を見るにつけ、僕はそうではないのではないかと思い始めた。大事なのは世代別投票率を上げることで、自分たちは「お客様」だと店主=政権にアピールすること。例えその結果、自民党が歴史的な大勝を成し遂げても、若年層の投票率が高ければ、それは「世代と言う圧力団体」となって機能する。過去の政治がイデオロギー対決によって与党と野党の綱引きの中で政治的バランスを取っていたのだとすれば、現代は国民総与党となり内部で強い力を誇示することが有効な手段となるのではないか。そしてもし、前回の総選挙で若者の投票率が高ければ、自民党の大勝であっても今回のような事態は防げたのではないか?自民党に対し有効な野党が存在しない今、僕らにできることはそういうことのような気がする。政権が暴走を始めた今となっては、時すでに遅しなのかもしれないが。

 

 

感情はどこへ

ここまでヒドイ発言は、記憶を遡ってもさすがに無いと思う。http://www.asahi.com/articles/ASG6M5HK9G6MUTIL031.html どんな感想を言って良いのか分からないほどの下劣さで、ニュースで知った時はしばらく呆然としてしまった。発言した本人を特定できないと自民党は言っているそうだけど、言った本人が忘れていない限り特定するのは可能だろう。こうした発言をする者がいて、それをかばう行為が許されるかもしれないと感じていることにも、ものすごい絶望感を感じる。

そして違う角度からさらに驚いたのがこちらの記事の最後のやりとり。http://blogos.com/article/88865/ この発言のどこが問題なのかを聞くインタビュアーに対して、被害者である塩村都議が属するみんなの党の浅尾代表はこう答えている。

以下引用

みんなの党のみならず、おそらく各党とも、すべての政党が少子化という問題に対しては、真面目に取り組もうと。
その上で晩婚化・不妊・未婚の問題についていろんな対策を出していこうと言うことを、国政のレベル、都議会のレベルでも各党とも理解していますけれども。そのことを公約でも言っている。 
公約にもいっているにも関わらず、ヤジを飛ばした当該本人もたぶん選挙の公約、都政の選挙においても、その属している政党の公約の中にも少なくとも入っていることは間違いないと思いますが。公約として入れてるけれども、全然頭の中に入っていないと言うことが最大の問題だと。要するに自分があんまり考えてないことを公約の中に入れている。そのことを許容しているということが問題だと思います。

ちょっと待った。少子化対策という公約を理解していないことが最大の問題じゃなく(もちろんそれも問題だけど)、一人の人間の尊厳を、人権を踏みにじる発言行為が問題なんじゃないのか?。そもそもインタビュアーの『どこが最大の問題ですか?』という質問にも絶句だが。『お前は結婚しないのか!』『産めないのか!』→『どこが最大の問題ですか?』→『公約を理解していません』 3つの言葉、そのすべてがおかしくないか?彼らには人の感情と言うものが分からないのだろうか?

 

以前、レストランで食事の写真を撮ることを禁止する店が増えていると話題になったことがあった。出された料理をスマートフォンで撮り、食事もそこそこにSNSにアップする姿を見せられる店側の気持ちも分かる。隣のテーブルで食事する方も良い気分ではないだろう。でも驚くことにネットの反応は違った。彼らは店が撮影を禁止するという行為が法律的に許されるのか、だとしたらそれはどんな法律か?それに従わずに撮影した場合、自分は何らかの処罰を受ける可能性があるのか、従わないことを法律的な背景をもって要求することはできるか?という議論に終始していた。そしてそのやりとを見て、僕は暗澹たる気持ちになってしまった。相手や周囲が不快と感じる行為があった時、それに対する自分の反応は理屈で考えるべきことなのか?その理屈は人の感情より優先されるべきものなのか?

『40にして惑わず』、使い古された言葉だけど、僕にとってそれは『40才になったら自分の感情を信じて尊重しろ』という意味に捉えていた。若い頃は理屈こそが全て。でも、そろそろ自分の感情を信じて良い頃だ。素敵なものは素敵だと、許せない者は許せないと自分の感情が動いた時、その感情を信じろと。あなたはそうした訓練を十分積んできたのだし、独善的であることがどれだけ自分を不幸にするかも知っている。だから自分の感情を信じろと。そしてそんな事を考えながら40代を過ごしていると、この国の人たちがいかに感情をないがしろにしているかに気付く。自分の感情も、他人の感情も。まるで感情的であることは、人間として低レベルであるかのように。いつの日か、自分の怒りや喜びも理屈で説明できないと現せない時が来るのではないだろうか?そして今回のヤジ騒動の幕引きもまた、感情をないがしろにした言葉で締めくくられるのでないだろうか……………

『誠に遺憾です』

 

物の裏側にある人

お客様への納品を兼ねて、久しぶりに関西へ出張した。仕入先をいくつか周り、その後は工場へ寄ってスタッフ用に加工の様子を収めた研修ビデオを撮影して帰る予定だった。自分たちが扱っている商品をどんな人がどのように作っているのか、それを知ることで接客スキルも上がるし、製作指示のポイントも分かる。クレームが起きた場合でも、なぜそのような事が起きるのかという工場からの説明に対する理解力も上がる。何より、自分たちの販売する製品をどんな人がつくっているのかを知ることはとても大事だと思ったからだ。

2泊目の夜に、近くの同業者と飲むことになっていた。前日に確認の電話を入れると彼はA社のB社長を会わせたいと言った。当店とは取引はないが、小規模の老舗メーカーで私も良く知っている会社だった。最近、代替わりして私より若いご長男が社長になったらしい。折角の機会なのでご一緒することにした。

Bさんはとても印象の良い方で、私たちは既に何度か飲んでいるかのように楽しい時間を過ごした。そんな雰囲気もあったのか、彼は『ちょっと見て欲しいものがあります』と僕にA4のファイルを手渡した。それは、専門店の現状と今後について書かれたパワーポイントの資料だった。私は飲む手を休めて、真剣にそれを読んだ。彼はその人柄通り、私の読むペースに合わせて、熱過ぎない真剣さで説明を加えてくれた。

これまで販売していた低価格でシンプルな価格システムの商品群は、阪神淡路大震災に伴う需要の大幅な増加により接客機会を逃すことが増えた専門店が始めたもので、デフレ時代は良かったがアベノミクス効果により最近は売上が落ち込んでいる。しかし、大型チェーン店がそれに合わせて中・上級の商品ラインナップを充実化したため、専門店は景気が良くなっているにも関わらず苦戦している。そうした中で必要なものは…。という話の流れだった。ある同業者会の集まりで講演をする資料とのことだった。『どう思いますか?』と彼は真顔で聞いて来た。私は正直に感想を述べて良いかどうか迷ったが、初対面の彼の人柄を信じて、正直に感想を言う事にした。

『いくつか気になることがあります。まず一つは、ここで書かれていることが論理的で、その結論を正しいと位置づけていることです。論理的であることと正しいことはイコールではありません。これと全く違う意見を論理的に説明することも出来るし、僕の意見は実際そうです。そしてそれが正解だとは思いません。正解を知るための準備だと思っています。でも、そうでない人は論理的な結論を正解だと信じて、自分で考えることを止めてしまう方がいます。それは講演者であるBさんにとっても、希望する結果ではないのではないでしょうか?。もう一つは、専門店がチェーン店に対応すべき存在であると書かれていることです。それは、主体性やアイデンティティを持たない存在だと言う事です。私は、今の専門店の凋落は、「こっちに売れそうなシステムがあるぞ~」って業界紙が取り上げると皆でワッ~と押し寄せてブームが終わると文句を言いつつ止めるような、主体性とアイデンティティの欠如にあると思っています。それから最後にもう1つ。この資料にはお客様が登場しません。拝見した資料を見るとチェーン店は、今、何をお客様が求めているかを調べて、中・上級品の商品開発に取り組んでいます。素晴らしいことだと思います。ちゃんとお客様を見ようとしてる。でも専門店はどうでしょう?お客様を見ずにチェーン店の方ばかり見ているんじゃないでしょうか?僕はそれが一番の問題点だと思っています』。

本音を言うとこの出会いをきっかけに彼の会社と取引したいと思っていた私は、なるべく失礼が無いようにと言葉を選びつつも、もうそれは何の効果もないだろうと諦めつつ本音を話した。彼は真剣に耳を傾け、最後にこう言った。『明日、僕の会社に来ませんか?今、新商品の開発をしてるんです。是非ご意見を聞きたい』。

翌日、工場へ到着が遅れるお詫びの電話を入れて、彼の会社へ向かった。彼は新商品の試作品を見せて色々な事を聞き、是非、他の商品も使ってほしいと言ってくれた。そして私たちは酒も飲んでないのに、3時間も真面目に仕事全般の話をした。僕は彼がくれたサンプルを持ち帰り、スタッフを集めて簡単な説明会を開いた。これを作っている会社はこういう物作りを心がけていて、それを作っている社長はこんな人で…私たちはそれを分かっていなければいけないし、それが大事だと思っている。

 

カイゼン、そしてプレジデント的な何か

はてブを読んでいるとついつい店の経営になにかプラスになりそうなトピックに目が行ってしまう。自分では正しいと思っていることって、案外その根拠や土台はぜい弱で、偏った見方に満ちたものだったり基本的な部分で誤った理解をしているケースがあるからだ。でもなぜか、日本のコンサルや経済誌関連の読み物で記憶に残るようなものは少ない。プレジデント(雑誌)ライクとでも言うのか、意見が論理的であれば誰もが成功するかのような内容は読んでいて脳内にアラートが鳴ってしまう。

最近だと気になったのはこの記事。http://www.ex-ma.com/blog/archives/613 いかにもプレジデントライクな文章で、読んだ後に『そっか~、ウチに足りないのはこれだ!』とか社長が突然言い出して、思いつきで似て非なるものを始めて従業員が困惑する光景が目に浮かんでしまう。

こうした文章の何に違和感を感じるか。それは『自分は正しい』という前提で話が進んでいることだ。今回の話で言えば、まず例として挙げられているホテルやレストランは『ホスピタリティがあり』、『美味しい』ということが前提になっている。でも果たしてそのあまりにもハードルの高い前提をクリアしている店がどれだけあるのか、また、その前提があまりにも高いものだと認識して読んでいる人がどれだけいるのだろうか?

商売をしていて大事なのは、お客様と自分の間に誤解から生まれる溝を作らないことだと思う。流行らないレストランのシェフで自分の料理が美味くないと思っている人はいないし、郊外にショッピングモールが無くても結局シャッター通りになったと思う商店街の店主は居ない。皆、自分は正しいと思っている。だからこそこのような前提の経営話は多くの人に共感を得るのだろう。

10年前、まだ従業員だった僕が勤務している店の近くに、僕が売り場責任者をしていたアイテムの大型チェーン店が出来た。売上はがた落ちした。そして僕はその店よりさらに安い価格アイテムを揃えて対抗し、成果を上げることが出来なかった。価格も安く専門知識なら絶対に負けない自分が結果を残せないのはお客様のせいだ、と当時の僕は思っていた。そしてそのままの思考でいたら売場は閉鎖されていただろう。

そこから僕が取り組んだのは、『果たして自分は正しいか?』を検証することだった。販売をする上で必要な要素(プロセス)を書いて、自分が知りうる全国の同業者でベストだと感じる人・店を5とし、自分と売場に点数を付けてみた。泣きたくなるほどに自分は『正しく』なかった。そして、その点数を上げるために自分が何をすべきを考え、お客様が当店を知り来店し購入し納品するまでの全てのプロセスを理想化した小説を書いてみた。主人公のお客様が見た売場や商品アイテムも出来るだけ詳しく書いた。1年後に結果が出始め、2年後にはチェーン店が当店を意識するようになり、3年後には僕がチェーン店を意識することはなくなり、僕が前職を去る時にはチェーン店は売上のテコ入れのために大幅リニューアルをすることになった。

3カ月ほど前に業界紙からアンケート用紙が届いた。その中に『消費税増税後の対策は取られていますか?』という質問項目があり、『有り』の回答の中には色々な販促策が描かれていて〇で囲むようになっていた。僕はそこに書かれているプレジデントライクな対策に違和感を覚えて何も〇を付けなかった。僕がやったのはスタッフミーティングだ。増税前の駆け込み需要でパンクしたこの数か月間でしか見えなかったことがたくさんあった。スムーズだと思っていたルーティンは実はスムーズではなかったし、より良いものを提供するためにと取っていたコミュニケーション方法は十分ではなかった。事務所の白板に業務フローを貼り、スタッフにこの数カ月で感じた問題点を付箋に書いて貼ってもらうと他にもたくさんの要改善点が出てきた。ミーティングではそれらの全ての解決策を考え、今すでに動き始めている。自分は正しくない、少なくとも正しくないかもしれない、そう考えていくことが真の意味での販促だと僕は思っている。

主観と客観

日常生活やSNSでは「旬な話題には乗ったら負けだと思ってる」って感じの私ですが、その時々の話題にはやはり色々感じることがあります。最近の『美味しんぼ』騒動もそうです。作者の意図や行動の是非は、私に判断できるもの・できないものが混在していて、それぞれを分割して総括するというのは難易度が高すぎて無理なので、自分の意見を言うのは避けたいところです。でも、それを分かっていながら意見を言う人、特に言論を仕事としている人でそこから逃げなかった人はやはりすごいと思いました。今回の話題は、中身そのものの難しさもそうですが、対象となるオーディエンス(という言い方が相応しい気がする)の誤解力もすごいのでなおさらです。

ツイッターの『鋭いことを言う人』も含め、今回の騒動の色々な発言を見ていると、主観で話すことの重要性を感じます。最初の段階で聞こえてきた『反・美味しんぼ』の意見と、そこから生まれる擁護派の意見、住民や国・地方行政と言った異なる立場の意見、色々な意見がネット上に出ていました。そしてそうした意見があったからこそ、この騒動の本質的な問題点も見えてきたような気がします。実際、今はそういう段階に入っていますよね。

こうした事は仕事でも似たようなケースがあります。例えばミーティングで、どこで仕入れたのか『客観的な意見を言う冷静な人がスゴイ』と誤解している人がいて困ることがあります。とにかく言う事はもっともなんだけど、会議の推進力にならない。会議の参加者というのは、いかに的確な判断材料をジャッジを下す人に提供できるか、というのが大事だと私は思っています。それは参加者であった昔もそうです。自分のポジションから見える光景(問題点とか要望とか)を議題に添って提供する。『こういうケースがあって困ってる』『今の手法はトラブルの元になるので見直す必要がある』とか。そうすると違うポジションの人間がそれとは異なる光景を話す。そこにあるのは対決ではなく、ジャッジを下す人への判断材料の提供です。だれもが主観を話すからこそ、そこから客観的な何かが見えてくるのです。

でも、一番困ったのは判断材料を提供するのではなく、結論として自分の主観を話す人でしたが(笑)。意見を言うとのは難しいですね。

対策大好き

福岡の小学校の校長が麻薬所持の疑いで逮捕された件で、例によって行政側の謝罪会見と『再発防止に取り組みたい』という言葉が流れてきた。この二つは『簡単謝罪セット』としてどこかで売られてるんじゃないかと言うほど見飽きたので、どこまで本気なのか分からないが、もし本気だとしたら反対だ。今回の件は、校長が麻薬を所持するという前代未聞の事件で、レアもレア、今後もまずありえないだろうと思われるほどの内容だ。ここまで極端なケースで対策を取っていたら、教育行政は本来すべきことにリソースを注げなくなる。しかも、麻薬対策は刑法に抑止力があるという前提で言えば対策が取られている。それでもなお犯罪に手を染める何十年に一度の人物の為に、無駄にリソースを注ぐべきではない。

とにかく今の日本は問題が起きると対策を講じすぎる。自分の仕事で言えば、問題が起きた場合はまず対策を取るべきかどうか、対策を取る場合はどのようなレベルで行うべきかを判断している。そうでないと対策を実行する時間に取られ過ぎて、ルーティンがスムーズに回らなくなり、結果的に新たな問題を発生させてしまうからだ。だから、問題の内容の深刻度や頻度を考慮した結果、対策を講じない決断をすることもある。でも、僕は経営者だから許されるが、今の会社組織ではそんなことは許されないような気がする。

以前テレビで青山繁治氏と堀江貴文氏がスパイ防止法案の件で喧々諤々の討論をしていた。その中で堀江氏が「このような法律を作ってもスノーデンのような者は止められないのだから無意味だ」と説き、青山氏から猛烈に反論をされていた。僕は堀江氏は好きではないが、これはまさにその通りだと思った。彼が言わんとしているのは、対策とその対象者がアンバランスだと言うことだ。仮に法案が出来てもスノーデンのような『本気の』者は止められない。彼らは法案の有無にかかわらず任務を遂行するからだ。だとしたら対策として機能していないのだから意味が無いということだ。青山氏や「それでは他の刑法にも意味はないのか!」と怒っていたが、それは対策と対象者のバランスが取れているのだから問題無いということが分かっていないようだった。

今後も何か問題があるたびに、『再発防止に努めます』という言葉はで出てくるだろう。また、メディアはその言葉の出ない会見は「無責任」と言って切り捨てるかもしれない。その度に僕はニュースを見ながらため息をついてこう言うだろう。『誰か対策厨を止める対策を知らないか?』

You select、and you are selected

気になってちょっと驚いたエントリー。

http://blogs.bizmakoto.jp/fukuyuki/entry/17669.html

こうした当たり前すぎる内容がはてブで注目されるのは意外だった。内容を端的に伝える為に色々な条件を省略していると思うのだけど、この2つの消費者層を分けているのは金だけではない。「選んでいる」「選ばれている」ことを自覚しているかどうかだ。そして低価格の物を購入している層に、この自覚を持っていない人が多い。最近ではネットでその傾向が顕著だ。

いわゆる情報強者にありがちなのだが、自分が情報を選んでいると勘違いしている人がいる。例えばアマゾンで自分の部屋に置くラックを選ぶ。Aは5000円、Bは30000円だ。サイズもスペック上の素材も大差は無いように見える。その時に『俺にはAしか買えないな』と感じる人は「選んでいる」人だ。『Bは高いなあ。これじゃ売れないよ。Aで十分!』とポチる人は「選ばれている人]だ。消費者目線では逆に感じるかもしれない。でも、前者は「買えない」と感じた時点で自分の消費意志はBにあり、それを予算と勘案しつつ自分で結果を選んでいる。後者はAとBの価値の差を理解せず、Bの販売会社に切られているのだ。

こうした事は物を売る現場では良くある。物を売る以上、大抵の場合はある程度のターゲットを絞っているが、時折、それを理解せずに来店する方がいる。そして大抵の場合、彼らは情報強者だ。ネットで得た「知識」を元に店や商品を値踏みし、脳内で他と比較してランク分けする。販売側との協調関係を作ることが苦手なタイプが多く、大抵の場合は脳内でランク分け作業が終わるとその日の消費行動は終わりだ。普通なら、そこで販売側は協調関係を築こうと努力するのだが、そうはならない。こうした方は販売店や商品の表層的な部分しか見ていないので、徒労に終わることが多いからだ。ここに時間を費やしてしまうと、自分が大切にしたい顧客にリソースが裂けなくなってしまう。だから、「いかに彼らから切られるか」が大事なのだ。しかし彼らはそうしたことはイメージ出来ない。なぜなら、自分は「選ぶ立場だ」としか考えていないからだ。そして、無いことを証明することが不可能なように、選ばなかった店で得られるはずであったメリットもまた、知ることはできない。結果、彼らは多くの店に切られながら、自分が「選んだ」モノを手に入れていく。

消費というのは購入側だけでは存在しない。販売者と購入者が協調関係を築きながら生み出していくものだ。実際、僕の分野で出会ったネット購入者のほぼ100%がそうした関係を築けていない。やっかみに感じられるのも嫌なので、ここでその結果を書かないが、自分が人生をかけて販売している物がモノでしかなくなった状態を見るのは悲しいことだ。