主観と客観

日常生活やSNSでは「旬な話題には乗ったら負けだと思ってる」って感じの私ですが、その時々の話題にはやはり色々感じることがあります。最近の『美味しんぼ』騒動もそうです。作者の意図や行動の是非は、私に判断できるもの・できないものが混在していて、それぞれを分割して総括するというのは難易度が高すぎて無理なので、自分の意見を言うのは避けたいところです。でも、それを分かっていながら意見を言う人、特に言論を仕事としている人でそこから逃げなかった人はやはりすごいと思いました。今回の話題は、中身そのものの難しさもそうですが、対象となるオーディエンス(という言い方が相応しい気がする)の誤解力もすごいのでなおさらです。

ツイッターの『鋭いことを言う人』も含め、今回の騒動の色々な発言を見ていると、主観で話すことの重要性を感じます。最初の段階で聞こえてきた『反・美味しんぼ』の意見と、そこから生まれる擁護派の意見、住民や国・地方行政と言った異なる立場の意見、色々な意見がネット上に出ていました。そしてそうした意見があったからこそ、この騒動の本質的な問題点も見えてきたような気がします。実際、今はそういう段階に入っていますよね。

こうした事は仕事でも似たようなケースがあります。例えばミーティングで、どこで仕入れたのか『客観的な意見を言う冷静な人がスゴイ』と誤解している人がいて困ることがあります。とにかく言う事はもっともなんだけど、会議の推進力にならない。会議の参加者というのは、いかに的確な判断材料をジャッジを下す人に提供できるか、というのが大事だと私は思っています。それは参加者であった昔もそうです。自分のポジションから見える光景(問題点とか要望とか)を議題に添って提供する。『こういうケースがあって困ってる』『今の手法はトラブルの元になるので見直す必要がある』とか。そうすると違うポジションの人間がそれとは異なる光景を話す。そこにあるのは対決ではなく、ジャッジを下す人への判断材料の提供です。だれもが主観を話すからこそ、そこから客観的な何かが見えてくるのです。

でも、一番困ったのは判断材料を提供するのではなく、結論として自分の主観を話す人でしたが(笑)。意見を言うとのは難しいですね。