感情はどこへ

ここまでヒドイ発言は、記憶を遡ってもさすがに無いと思う。http://www.asahi.com/articles/ASG6M5HK9G6MUTIL031.html どんな感想を言って良いのか分からないほどの下劣さで、ニュースで知った時はしばらく呆然としてしまった。発言した本人を特定できないと自民党は言っているそうだけど、言った本人が忘れていない限り特定するのは可能だろう。こうした発言をする者がいて、それをかばう行為が許されるかもしれないと感じていることにも、ものすごい絶望感を感じる。

そして違う角度からさらに驚いたのがこちらの記事の最後のやりとり。http://blogos.com/article/88865/ この発言のどこが問題なのかを聞くインタビュアーに対して、被害者である塩村都議が属するみんなの党の浅尾代表はこう答えている。

以下引用

みんなの党のみならず、おそらく各党とも、すべての政党が少子化という問題に対しては、真面目に取り組もうと。
その上で晩婚化・不妊・未婚の問題についていろんな対策を出していこうと言うことを、国政のレベル、都議会のレベルでも各党とも理解していますけれども。そのことを公約でも言っている。 
公約にもいっているにも関わらず、ヤジを飛ばした当該本人もたぶん選挙の公約、都政の選挙においても、その属している政党の公約の中にも少なくとも入っていることは間違いないと思いますが。公約として入れてるけれども、全然頭の中に入っていないと言うことが最大の問題だと。要するに自分があんまり考えてないことを公約の中に入れている。そのことを許容しているということが問題だと思います。

ちょっと待った。少子化対策という公約を理解していないことが最大の問題じゃなく(もちろんそれも問題だけど)、一人の人間の尊厳を、人権を踏みにじる発言行為が問題なんじゃないのか?。そもそもインタビュアーの『どこが最大の問題ですか?』という質問にも絶句だが。『お前は結婚しないのか!』『産めないのか!』→『どこが最大の問題ですか?』→『公約を理解していません』 3つの言葉、そのすべてがおかしくないか?彼らには人の感情と言うものが分からないのだろうか?

 

以前、レストランで食事の写真を撮ることを禁止する店が増えていると話題になったことがあった。出された料理をスマートフォンで撮り、食事もそこそこにSNSにアップする姿を見せられる店側の気持ちも分かる。隣のテーブルで食事する方も良い気分ではないだろう。でも驚くことにネットの反応は違った。彼らは店が撮影を禁止するという行為が法律的に許されるのか、だとしたらそれはどんな法律か?それに従わずに撮影した場合、自分は何らかの処罰を受ける可能性があるのか、従わないことを法律的な背景をもって要求することはできるか?という議論に終始していた。そしてそのやりとを見て、僕は暗澹たる気持ちになってしまった。相手や周囲が不快と感じる行為があった時、それに対する自分の反応は理屈で考えるべきことなのか?その理屈は人の感情より優先されるべきものなのか?

『40にして惑わず』、使い古された言葉だけど、僕にとってそれは『40才になったら自分の感情を信じて尊重しろ』という意味に捉えていた。若い頃は理屈こそが全て。でも、そろそろ自分の感情を信じて良い頃だ。素敵なものは素敵だと、許せない者は許せないと自分の感情が動いた時、その感情を信じろと。あなたはそうした訓練を十分積んできたのだし、独善的であることがどれだけ自分を不幸にするかも知っている。だから自分の感情を信じろと。そしてそんな事を考えながら40代を過ごしていると、この国の人たちがいかに感情をないがしろにしているかに気付く。自分の感情も、他人の感情も。まるで感情的であることは、人間として低レベルであるかのように。いつの日か、自分の怒りや喜びも理屈で説明できないと現せない時が来るのではないだろうか?そして今回のヤジ騒動の幕引きもまた、感情をないがしろにした言葉で締めくくられるのでないだろうか……………

『誠に遺憾です』